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キャラクター考察が主食のオタク

ディケイド及び門矢士についての考察〜偽物の仮面ライダー

突然だが、私は仮面ライダーディケイド及び門矢士が大好きである。

尊大な態度、裏腹な心、なんだかんだで仲間想い、光夏海との関係、作中の立ち位置や設定、全てが大好きだ。
本編も映画も小説も賛否両論の今作だが、未だに小説版を読んだときの衝撃は忘れがたい。





まず、本編(=TV版)と設定がまるで違う。
士は記憶喪失の青年ではなく、厭世家のカメラマン。矮小な自身と鬱屈した日常から逃げ出したいと考えていた彼はある日、荒廃した光写真館の中に異世界を写すカメラを見つける。覗くとその世界に渡ることができ、そこでは仮面ライダーディケイドに変身できるのだ。そうやって士は現実逃避にのめり込んでいく。
そして小説版で登場する電王、クウガ、カブトの世界は、リイマジネーションされたパラレルワールドではなく、原作通りの野上良太郎、五代雄介、天道総司が存在している。
本編至上主義の私は驚いたと同時に、本編とかなり毛色が異なるにも関わらず、すんなりとその世界観を受け入れられ、最後の答えを得たとすら思った。
ここで、ひとつの仮説を立てた。




【ディケイド本編の既存ライダー世界はパラレルワールド*1、小説版は原作の世界。ならば、その条件はディケイドにも適用されるのではないか?】




小説は後出しだし、電王は本編も原作っぽかったし(でも佐藤健じゃないし!)、突拍子もない事を言っているのは重々承知だ。だが聞いて欲しい。
本編のパラレルワールドは、オルフェノクの555や妹とおばあちゃんがいるカブトなど、僅かに根本の設定を残しリイマジネーションされている。本編と小説版の士の設定も「写真が上手く撮れない」「孤独を恐れている」「夏海にそばにいて欲しいと思っている」という共通点は存在するが、そもそものあらましは異なる。
本編の士はひねくれ者だが、強く時に優しく、写真撮影以外はほぼ何でもこなし、ライダーとの絆を深め問題を解決していく。夏海は最後までそばに居てくれるし、海東との関係は何だかんだ良好で、ユウスケという優しい友もできる。
これは、小説版の門矢士が望んだ姿であり、理想のリイマジネーションではないだろうか?破壊者でも救世主でもなく、仮面ライダーですらない、現実から目を逸らすただの青年が望む、理想の姿。
ここから、私は門矢士を「偽物の仮面ライダーだと思っている。そしてディケイドは「偽物が本物になるための旅」を描いているのだと思っている。


さらにディケイドには、侍戦隊シンケンジャーとのコラボ回が存在する。元々は仮面ライダーが存在しない世界にディケイドが介入したことで世界が歪み、新たな敵が出現してしまうストーリーだ。コラボ回を上手いこと本筋に入れ込む構成には舌を巻く。
ここでも鳴滝はディケイドは世界の破壊者だと吹聴しており、シンケンジャーの面々は士を拒絶する。しかし、シンケンレッド・志葉丈瑠だけは、士を最初に言葉を交わした時から、訝しんではいるが、受け入れようとしている。

「士、俺はお前を破壊者だとは思ってない。」
「根拠は?」
「無い。しいて言うなら、侍の勘だ。世界は知らないが、俺たちは、お前を追い出す気はない。」


これはシンケンジャーにおいて最大のネタバレであるが、志葉丈瑠は影武者であり、本物のシンケンレッドではない。
偽物の仮面ライダーと、偽物のシンケンレッド。これは完全に想像だが、丈瑠は士に対して偽物同士、通じ合うものを感じていたのではないだろうか。



「ディケイドに物語はありません」と切り捨てられた最終話。そこからファンの様々な意見や解釈が繰り広げられてきた。私はその言葉を好意的に受け止め、ずっとこのように考えてきた。
偽物には物語はない。仮面ライダーではないのだから。しかしそれをこれからも広げ続けるのが門矢士の旅である。
あれから10年。新たな記念作品になるであろう「仮面ライダージオウ」。ディケイドが重要な立ち位置で出ると面白いな、と半ば期待をしつつ、ニチアサ視聴に戻るものである。

*1:ゲスト出演で本人役のキャストが出たりするが、どこかディケイド用に脚色されている。